昭和45年の全関試合直後、肺充血で倒れた悲劇の名馬
リューリック号
34年ダービー出場場。毎日王冠優勝の有名なウネビヒカリ号。競馬気分の抜けきらない満10歳、名門の兄貴。機嫌の良い時には常に舌を出しており、機嫌の悪い時にはすぐ人を噛む。我々にとっては少々扱い難い馬。やっとこの頃、粗食にも耐え敢えて食物に対して反抗を見せず、「俺はまた何でこんな所に、転がりこんで来たんかな」と、いつも考えているようだ。 (昭和40年6月発行
(『立命館大学馬術部 報告Ⅰ』より 北村 登先輩筆)
当時の名血ライジングフレームの子「ウネビヒカリ 」が名を「リュウリック
」と改め、どういう訳か我が部におりました。入厩以来、大いなる期待にも関らず思うように馬術馬として伸びなかったようです。しかし悍の強さ、馬としてのプライドの高さは元ミスターに関らず、リチャードに負けないものを持っており、スキあらば部員に咬みつくという行為は、自己主張を忘れないようにしているかの様でした。飛越意欲が旺盛で前脚をピンと伸ばして華麗な速歩をするなど良いものを持ちながら、いかんせん器用さに欠けていた様で、充分にその良さを生かしてやれませんでした。服部乗馬クラブでの大会の時には、人馬転倒をやらかしリュウリックは前脚を負傷し、数ヶ月治療する羽目になりました。気の強い馬が、治してもらいたい一心なのか誠におとなしく、借りてきた猫の様にひたすらジッと耐えているのには、動物の本能がそうさせるのかと感心させられると同時に怪我をさせたことを申し訳なく感じました。
(『銀鐙』3号より昭和45年度卒の藤崎 芳利先輩筆)
三回生の9月6日正午、淀の競馬場のダート走路でのスティープルに騎乗しました。ゴールしましたが直後に肺充血で倒れ、競馬会の獣医が酸素吸入など、八方手をつくして下さいましたが午後5時過に亡くなりました。 奇しくも前夜私の誕生日を後輩たちが仮馬房でろうそくの火をともし祝ってくれた翌日でした。
(昭和47年度卒の平井 誠吾先輩より寄稿)
歴史に名高い馬場馬 隼人号
皆さん、隼人という名前の馬を覚えていますか。佐野先輩が調教され、加藤先輩、横山先輩がその馬で活躍し、私もそのおこぼれで少しだけ活躍させていただいた20年ほど前の馬場馬です。人に噛みつくような恐ろしい馬(当時ハルビアという恐ろしい馬がいて2度も噛まれました。)ではなかったのですが、気高く王様のような貫禄を持っていました。この馬と3年間つき合いましたが、一番記憶に残っているのが3回生の夏の大会での事です。最後の直線で踏歩変換をするのですが、失敗してしまい、あと少しで場外失権(勿論、馬場の競技です。)しそうになった事です。かろうじて優勝はしましたが、後で佐野先輩にひどく怒られ、踏歩変換の特訓をうけました。残念ながら最後まで踏歩変換は上手くなりませんでした。その佐野先輩には大変なご迷惑をおかけしてしまいました。確か3回生の9月頃にホースショーというのがありまして、それに佐野先輩と隼人が出場し、模範演技をすることになりました。じっくり調教して素晴らしい演技を観せるはずだったのですが私のミスで隼人に大ケガをさせてしまったのです。おかげで佐野先輩は、ぶっつけ本番で、ケガも治りきらない状態で出場することを余儀なくされました。しかしながらその演技は素晴らしいもので、改めて隼人の素晴らしさ、オリンピックレベルのすごさを認識させて頂きました。あの時ケガをさせずに出場していただければどんな演技だったのかと、まことに残念です。
(『銀鐙』創立80周年記念号より昭和55年度卒の田之倉 三三男先輩筆)